小浜城
別名 雲浜城 | 付近住所 福井県小浜市城内1 | 現在 小浜神社 |
2009/5/4 | 碑・案内板アリ | 日本城郭大系 |
大津藩より 京極高次→ 京極忠高 松江藩へ 川越藩 酒井忠勝→ 酒井忠直→ 酒井忠隆→ 酒井忠囿→ 酒井忠音→ 酒井忠存→ 酒井忠用→ 酒井忠与→ 酒井忠貫→ 酒井忠進→ 酒井忠順→ 酒井忠義→ 酒井忠氏→ 酒井忠禄 |
昭和31年3月12日 指定 酒井家累代の居城、慶長6年(1601)起工、寛永15年(1638)天守閣・城郭がせいびされたが、明治維新の廃藩で城は取りこわされた。近世城郭資料として重要なものである。 一、小浜城 別称 雲浜城 1.築城 慶長6年(1601)京極高次が着工し、その子忠高に至る33年間に城の大半を造り、寛永11年(1634)酒井忠勝が藩主となり、寛永15年三層の天守閣を築いた。 2.城地 東西156間(284米)南北145間(264米)総地坪数18937坪(62492u)外濠を除く。 本丸 3130坪(10329u)内堀3755坪(12391u) 二の丸 藩主の家族の住宅屋敷 2249坪(7422u) 三の丸 軍用食糧、兵器の倉庫 3806坪(12560u) 北の丸 2584坪(8527u) 西の丸 3413坪(11263u) 3.特色 海と河川とを取合せた要害の海岸城で、平地城としては慶長初期であり古く、石垣の慶長積みは特色である。 4.沿革 京極氏の後は寛永11年から明治4年(1871)まで酒井氏15代260年間の居城であった。 明治4年12月、この城に大阪鎮台第一分営を設置すべく改造工事中二の丸櫓の工事場から失火し、城の大部分を焼失した。現況は左図のように河川拡張のため旧城地がけずられて縮小され往昔の面影はない。 二、小浜神社 1.創建 明治8年(1875)旧本丸跡に旧藩臣ら相謀りて建てた。 2.祭神 藩祖酒井忠勝公を祀る。 酒井忠勝公(天正15年(1587)6月16日生 寛文2年(1667)7月 日没) 忠勝公は徳川秀忠、家光、家綱の三代に歴任し、大老職に居り、徳川幕府300年の基を作った。常に江戸幕府に出仕し、小浜城に帰ったことは十数回で、延べ9ヶ月程だという。 忠勝公の歌に、 たのしみは ねふれるうちのものなれや さむれは ことの おもわれそする 法名 空印寺殿傑伝長英大居士 小浜市男山 空印寺に葬る。 関ヶ原合戦の戦功によって若狭の領主となった京極高次が慶長6年(1601)、北川、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に難攻不落を誇る水城として築城を始めた。別名を雲浜城とも呼ばれる。寛永11年(1634)京極忠高が出雲に移封となり、酒井忠勝が武州・川越(埼玉県川越市)より若狭11万3千5百石の藩主となり、天守閣の造立に着手、寛永19年(1641)40余年の歳月をかけて小浜城は完成をみた。 以来、酒井家14代、237年間の居城となり、廃藩置県を迎える。 明治4年(1871)12月大阪鎮台分営設置の改修中に本丸櫓より出火、城櫓の大部分を消失して現在は本丸の石垣を残すのみとなった。 城地総面積 62492u 本丸面積 10347u 昭和31年3月12日、福井県史跡として指定を受け、城地に藩祖・酒井忠勝公を祀る小浜神社がある。 酒井忠勝 初代酒井小浜藩主の酒井忠勝は、1587年(天正15)、酒井忠利の長男として三河国西尾(愛知県西尾市)で生れました。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに先立ち、徳川秀忠が信濃の真田昌幸・幸村父子を攻めた 戦で初陣を果たしました。1620年(元和6)2代将軍秀忠は、世継ぎとなる子徳川家光に忠勝を近侍させ、2年後には1万石を加増して大名にしました。1624年〈寛永元)に老中、1627年には武蔵国川越で10万石を得て、1634年(寛永11)には11万3500石で小浜藩主として小浜に入部しました。1637年(同14)大老に就任し、4代徳川家綱を補佐する幕府の重鎮として活躍しました。1656年(明暦2)隠居し、1660年(万治3)剃髪して空印と名乗りましたが、幕政にはなお大きな影響を持ちました。初代酒井小浜藩主として小浜の町づくりの基礎を築くと同時に、この小浜城を完成させました。 |